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放射能汚染健康対策専門家会議中間報告、対政府交渉。 

 大分長い漢字の羅列になってしまった。

 子ども被災者支援法の関連にもなっている今回の政府の専門家会議の中間報告、26日福島瑞穂参議院議員セットの対政府交渉に、栃木県那須塩原 放射能から子どもを守る会からということで参加してきた。

 専門家会議の中には栃木県有識者会議座長の鈴木元も委員として入っている。鈴木元がやっていることそのものが、今回の専門家会議の中間報告になっているとも言える。

 私は、専門家会議が出した、福島県以外の近隣県の健康対策について意見を言うために参加してきた。
 専門家会議は、福島県外の健康対策については、”リスクコミュニケーション”を主体にした対策を打ち出しただけである。
つまり、「放射能による健康被害はないので、大丈夫、という説明をするだけでよろしい。」ということである。

 前日に那須塩原市でも比較的に放射能汚染が高い関谷地区での、木村真三氏(獨協大学準教授)の講演会に参加した際に、地元住民グループの線量調査のデータを頂いたので、政府の係官に示して、対策を迫った。

 「幾ら有識者が大丈夫だ、と言っても、この放射能汚染地に住む人たちの不安は減らない。」と訴え「、リスクコミュニケーションというのであれば、言いっぱなしでは意味がない。自治体が甲状腺検査をやっている自治体もあるが、やらない自治体では住民グループがボランティアでやっている、住民の関心が高い。せめて不安を抱える人たちや、希望を持っている人たちだけでも甲状腺検査を実施して頂けないか。」と迫った。

 政府の担当者は「貴重な意見だ。」とは言ったが、対策をするとは言わなかった。

 政府は、避難区域の飯舘村で、山下俊一が行ったリスクコミュニケーションと何一つ違わないやりかたを、依然としてやっているわけで、そうしてこれからもやろうというわけである。
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山の幸、原発事故から3年を過ぎて分かったこと。 

 日本では、落葉樹・常緑樹・針葉樹・広葉樹などに主に樹木が分けられる。樹木の葉は、年数に差があっても、どんな葉もたが手は落葉する。自然の摂理である。落葉しない樹木はない。

 一方、山から産出されるものが、原発事故の後、放射能に汚染されているのは、ほとんどの人が認識をしている。しかしまた同時に、事故から3年を経過したころから、”慣れ”と忘れたいという意識も手伝って、「もう大丈夫だろう」というなんの根拠もない空気が社会を折檻しているのも、これまた事実である。

 那須塩原市にいたときに、知り合いが「山の中を歩いて見ていたら、チチタケ(キノコの名)が収穫されていた。放射能は大丈夫なんだろうか、」という話を聞いた。

 今日、那須塩原市で、木村真三(獨協大学準教授)の話を聞いた。木村氏曰く「2012年に㎏300ベクレルのキノコが3000ベクレル/㎏になっていた。キノコ以外の山菜なども2012年の10倍から100倍になった山菜もあった。」という。

 私は別な勉強で、木々の葉が2年以上かけて土に帰っていくことを学んでいる。ブナの木は1年目の落葉の葉は、40%しか土に帰らない。しかし、3年を過ぎていくと、木々の葉はそのほとんどを土に返す。虫たちが食べ、その糞をバクテリアが分解して、元の分子の状態にするのであある。そうすると再び木々に栄養として吸収される。そうして自然は”循環”してきたし、これからも循環していく。

 だからもう、自然の生態系は放射能の循環に入っているということなのである。1順目の21013年にそれが始まって、それまでの放射能の汚染レベルが、10倍~100倍に上がっているといういことのなるわけである。

 だから、山の物の放射能汚染は、原発事故から3年以上もすぎるから「もう大丈夫だろう」ではなく、まだまだこれから大変な状況が続く、ということなのである。

再び風刺画について。 

 基本を外すと、結局行きつく先は取り返しがつかない、という話である。もっとも基本になることを言うと、反応は薄いというかあまりない。当たり前すぎるからである。しかし基本は基本なのである。

 フランスの風刺画のことなのだが、またまたイスラム教の預言者ムハンマドに対する風刺画を描いたという。

 私に言わせれば、馬鹿じゃないか、とさえ思う。表現の自由と主張して書いている。しかし、フランス国民からでさえ、「やりすぎだ!」という批判がある。大半の人は、表現の自由を守るため、に協力的に購入して、500万部が刷られたらしい。だが表現の自由をはき違えてはならない。人の心の中にある宗教的な尊厳をなぜに踏みにじるのか。

 このことの行きつく先はどこにあるのか。風刺画に対し、トルコは大統領が批判的に評価しているし、突き詰めると特定の宗教の批判は暴力の連鎖というとんでもないことになるのではないか、と想像するのである。

 日本で、創価学会の池田大作氏の批判を、風刺画を用いてしつこく批判したら、創価学会員はどういう反応をするだろう。”言わない優しさ”がある。日本のマスコミもその辺の声も拾ってほしいと思うのは、私くらいなのだろうか。

 ヘイトスピーチは、国際的にも許されない表現だが、何故それが表現の自由と言わないのか。人の心を傷つけるからだろう・・・ 

 キリスト教のキリストでも同じで、そういう批判や風刺は、相手が弱いものだったり、特定の宗教だったりする場合は、許されないのだということをせずに、表現の自由、などと言っていると、基本を外れた道筋はとんでもない方向に行きかねないということを考えないとならないのではないか、そう思う。

 社会全体からゆとりがなくなっている。ヒステリックである。何故いじめる対象を無理にでも作るのか。フランス、何が自由平等博愛なのか、今やフランスの不寛容は、イスラムを褒めることには罰をもって臨んでいるというから、とてもじゃないが褒められたものではない。

 表現の自由と風刺は、基本から外れると、単なるいじめやヘイトスピーチに過ぎなくなるということを肝に銘じてほしいのである。

協力要請しました。 

 14日、楢葉町区長会・漁協・消防団・商工会、等に、楢葉町一歩会の活動に対する協力要請を行った。

 以前に老人会・婦人会に同様の要請をしているので、ほぼ要請は終了した。ただ商工会はもう一度行って話をしなければならない。

 概ね好意的な受け止めであった。(子供を守りたい、という趣旨なのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが)ただ要請先が、公的な機関であるので、その代表者は公的な性格を持っているので、その”公的性格”が邪魔をする可能性があるというだけである。ただゼロ回答はないと思っている。

 その結果を持って、再度議会に議決のための要請を行う予定である。

 もう一つ、隣町の議員と会った。3月議会で帰還を進める条件として、一歩会が提起している項目を楢葉町同様議会議決してもらい、国に対して、無条件での帰還などはあり得ないのだという、抵抗の姿勢を示したいと思う。

 ただ話した議員が理解度が低く、その為に、町民からの要請という形を取らざるを得ない。それは対策済みである。

 いずれにしても、3月まで(楢葉町が帰還時期を示す時期、とそれの重なる3月議会への取り組み)が一つの勝負の時期だろうと思う。それだけは逃さず、やれることをやって行きたい。日本という国が、金のために子どもを犠牲にしてごり押しして帰還させる姿を、人々の前に示せれば、一定程度の目的は果たしたともいえる。我々はその生き証人なのである。

子どもを守りましょう、に、老人会・婦人会はどういう反応? 

  楢葉町の帰還宣言は、国からの”早く帰れ”圧力に、5月、という噂が出ている。我々にできることは限られている。

  3月までの間に、住民組織(主に管制の)を楢葉町一歩会の支持・協力団体に加えて、3月の議会での決議を目指してみたい。

  楢葉町の老人会は14日に、役員会を開くというので、事前に協力要請の行動をした。時間がもったいないので、ついでに婦人会も要請することにしたのである。

  楢葉町の復興を真に思うのならば、インフラなどの条件だけではだめで、子どもが安心できる環境をどう作るかということが、子どもが帰れる条件つくりということになるわけであり、それが復興という意味である。そうしてそれが一歩会の設立の趣旨でもあるのである。

  そのことを訴えの中心として、老人会と婦人会に協力要請をしたわけである。

  老人会会長曰く「自分たちだけ帰って、子どもや孫は帰らない、楢葉町は自分たちの同級生ばかりのようになってしまって、生活が成り立たない。老人ホームだって、働く若い人がいなくてどうして復興なんてできるのか。」とまったく当然のことを言っていて、「一歩会のみなさんの活動は有難い。反対する理由はないので、話し合って返事します。」ということであった。

  婦人会は代表が、自分の自慢話ばかりしていて、(暫くぶりに話が出来て嬉しかったのかどうか・・・)どこまで真剣に理解したか分からないが、近いうちに回答するということであった。

  14日にその他の団体に要請して、そのご議会の対策をしてみようと思う。またこのブログで報告したい。

フランスに何故攻撃するのか? 

  今回のフランス社会を揺るがす新聞社への攻撃、犯人という人物へのインタビューが報道されている。

  イスラム教とは直接関係はないのだが、人口の大半がイスラム教のパレスチナの人たちへのイスラエルの攻撃への怒り、イスラム国やイスラム圏に一方的にフランスが空爆している怒り、勿論イスラム教預言者ムハンマドへの、風刺画への怒り、そんなことが報じられている。

  最初に断わっておくが、あの虐殺は大変な犯罪的な行為である。そのことの意見の違いはない。

  ただ、何故あのような事件が起きるのか、そういうことを事件を犯した側に一度立って考えてみたいということである。

  まず、軍事的な攻撃は、フランスが空爆という形で先に仕掛けている。そうして、攻撃される方は、それに対抗する手段を持たず、一方的に攻撃される。それも何の罪もない、子どもや女性も犠牲になる。これはアメリカとの関係でも同じである。

  自分がその立場だったら、自分に身近な家族や知り合いが殺されていく怒りを、どこにどう向ければいいのか、抵抗の手段がなかったら、自死を覚悟の自爆や、テロに走る。そのことをどう批判すればいいのか。

  世界の世論は、ほぼすべてのマスコミが、フランスと新聞社を支持している。
  しかし、フランスやアメリカが多くの罪のない子供を殺戮していることは、ほとんど批判さえもしない。このことにイスラムの人たちは、不満と、鬱積と、怒りを貯めることはないのか。

  自分が信じきっている神(ムハンマド)を一方的に、風刺画というペンの力で侮辱されることに、怒りを覚えるのは当たり前ではないのか・・・まして自分たちには、そういう手段がない。

  元々、風刺画とは、時の権力者に対する形を変えた抵抗の手段として存在していたのに、弱い者いじめみたいなことが、言論の自由と言えるのか・・・

  そんなことを見ていくと、今回の事件は十分に起きる背景が整っていたとも言えるのではないか・・・

社会の存続は、子どもという基本的なこと。 

 これは昨年改めて基本的なことに気づいたというjこと。
 つまり、社会が存続するということは、子どもが健康に育たなければ成り立たないということである。

 そのことを自分の中で整理して考えてみたということなのである。

 つまり子供を大事に育てていかないと、社会は何時かは崩壊する訳なのだが、そのことに意外と誰も気づいていないのに驚いているの。大人がそのことに気づいていないのである。意外と自分たちが大人のことばかりしか考えていないことにびっくりすることがあまりに多い。

 見てみてほしい、自治体にある施設などを、例えば、温泉のカラオケ付の公共施設や、ジジーとババー利用専門のイベントが目白押しの公民館。そういう老人を大事にするための物は盛りだくさんだが、例えば子どもが学校以外のところで、友達と話したり、勉強したり、趣味を見つけたりする施設などは、ほとんど見たことがない。そういう子どもが利用する施設などはほとんどない自治体が多いのに、意外な感じを持つ。選挙権があるのが、そういうジジーやババーなので、選挙権のない子供のことは後回しになるのだろうか、一度身の回りを見まわしてほしい。社会の歪に気づくかもしれない。

 ジジーやババーはいずれは死ぬ。大事にするなとは言わないが、若者がその分大事にされているかと言えばノーなのではないか・・・と。

 一方社会の中を見回してみるとどうだろう、若者や子供が出入りするコンビニにはエロ本がわんさと陳列してある。若者・子供が求めてはいない。親が見て、安心して子供が外で悪いことをせずにいられる環境ではない。みな、大人の金儲けの犠牲である。これで、子どもにまともな人間になれと言っても無駄なのである。

 まともな社会にすると言うのならば、大人がまともにならなければダメなのである。自分たちが、子供が健康的で、まともな精神が育つ環境を作る努力をしないで、何でまともな社会が出来ようか・・・ 
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